ミャンマーの糸のこ一族3
糸のこ族の旅立ち1
中部国際空港の出国ロビー前で矢野閣下と落ち合った。
10月に木祖村の糸ノコおもちゃフェスティバルでお会いして以来の久々の再会だ。
ロビーは朝から混雑していて、日本から旅に出る人、帰国のため日本を後にする外国人、大人から子供まで様々な人々が行き交っていたが、我々が糸のこ一族であるということは誰も気づいていないようだった。
「コーヒーでも飲みますか?」と矢野閣下が言った。
コーヒーか、どうしよう。なんとなく腹に悪い気がした。
「どうしようかなあ、実はちょっとお腹の調子が悪いので」
矢野閣下の表情が変わった。
何か勘ぐるような目で俺を見た。
「少し痩せましたか?」
「え?」
「お腹の調子が悪いんですか?」
「まあ、ちょっとだけ調子悪くしてまして、でも、もう大丈夫ですけどね」
お腹の調子が悪かったことについては、旅先での食事の関係もあるので旅の途中で笑い話として話そうとは思っていたが、しかし、入院については話さない方が良いとも思っていた。話すときっと心配するだろう。あるいはその状態で渡航に踏み切った俺の人間性が疑われてしまうかもしれない。
そんな風に思った。
慌てて話すこともないだろう。
飛行機に乗る前から心配かけることもない。
あるいは、言わない方が良いかもしれない。
しかし、矢野閣下はするどく突っ込んで来た。
「入院していたんですか?」
「え?」
するどい。何故、わかる?
いや、連想すれば想像できることかもしれない。
入院中に矢野閣下と何度かメールのやりとりをしたが、俺は普段はやらない携帯メールから発信していた。それにブログが3月5日のときから一時中断していたのもあったし、あのブログには腹痛だったことを記していた。
さすが糸のこ業界の名探偵ホームズ。
ユタカ王国の総司令官として数々の面接で人間考察を行って来た矢野閣下なら、俺の入院は簡単に察知出来できることなのかもしれない。
さらに俺は、単純明快ときている。
しかし、俺が正直にすべてを話すまでは、いくら名探偵ホームズといえども、憶測の域を超えることは出来ないだろう。
「まあ、ちょっと食事とかあまり食べれないくらいで、だけど、もう、ほとんど大丈夫ですのです」
俺は返事を濁した。
そんな会話を交わしているうちに、他の同行者との待ち合わせの時間が来たので場所を移動した。
しかし、どうも腹のことばっかり書いてしまうな。「ミャンマー旅行記」というよりは「闘病日記」みたになってしまった。いかん、いかん。
と、いうことで、少し腹のことから離れて、ここで、矢野閣下とユタカ王国について、説明しておきたいと思う。
ユタカ王国とは電動糸のこのトップブランド(株)ユタカのことだ。日本では数少ない糸のこ機械を作る専門の会社で、そのシェアはどんどん延びている。
そして矢野閣下はその(株)ユタカの総司令官、いやいや、代表取締役専務の矢野広幸さんである。
ユタカ王国とナルカリ帝国が同盟を結んだのは俺が35歳のとき、西暦2004年のこと、俺がTVチャンピオン木のおもちゃ王選手権に出場したことがきっかけだった。
TVチャンピオン放映後、しばらくして矢野閣下から糸のこ刃と手紙が届いた。
「TVチャンピオン見ました。ユタカの糸のこを使っていただきありがとうございます。」そんな内容だったと思う
矢野閣下は俺のことを「糸のこ」や「バンドソー」、「ベルトサンダー」を購入していたお客さんだと認識してくれていたようだったが、どうやらTVで見るまでは俺のことを年輩のおじさんだと想像したいたようだ。ユタカ王国のお客さんは、会社の定年後に糸のこを購入して趣味の木工を始める方が多いようで、俺のことも、同じようにシルバー木工家だとイメージしていたらしい。
テレビで俺を見て、「こんな若い人だったの」と思ったようで、抱いていたイメージとは違ったおかげで、俺は新鮮で若々しい新進気鋭の木工家に見えたのかもしれない。
あれから6年、我々は様々なイベントやメディアの中で糸鋸大作戦を行ってきた。糸のこ機械の制作の立場と糸のこ機械を使用する立場、双方が相協力することでユーザーのニーズに応え、子供から老人まで、プロからアマチュアまでに届く、新しい糸のこ世界を推進してきたのだ。
そして、その出会いはイトノコエンターテインメントを生み出した。
ユタカ王国が用意してくれた2005年の愛地球博でのワークショップ会場において糸鋸寿司が生まれたことで、イトノコエンターテインメントへの流れが作られたと言って間違いないだろう。愛地球博という大きな舞台で活躍して糸鋸寿司が人気を博したことが、大きな自信となり、その後、糸のこロックやイトノコマシンガンズへと変貌を遂げていったのだ。
ユタカ王国との出会いがあったからこそ、俺は今があるのだ。
さて、我々の糸鋸大作戦はあらゆるところで実践している。こと、ナルカリの本拠地である木祖村においては、一家に一台糸のこの村の実現に向けてのIOC作線も行っている。ここで、その作戦の詳細をあきらかにすることはできないが、我々の作戦は糸のこ機械の普及のみならず、間伐材の利用推進や「ものつくり」の発展、新しいエンターテインメントの提案といったグローバルな視点から計画しているということを強調しておきたい。
まさに、我々、糸のこ一族はその勢力を広げつつあった。
もう一度言う。
シナリオは自分で描くものだ。
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